「映画」「舞台(芝居)」「TVドラマ」「TVゲーム」「特撮」「俳優」「バラエティー」「お笑い芸人」「漫画」「小説」「怪談」など批評、評価、感想、意見、注文、いろいろ書きます。
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2010.08.02
借りぐらしのアリエッティ [Blu-ray]借りぐらしのアリエッティ [Blu-ray]
(2011/06/17)
不明

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 試写会に当選して7月4日(日)に見にいった。試写会場は超満員。

 この作品が上映されるまでの、協賛協力提供の日本テレビは過剰ともとれる広告宣伝。CM、雑誌や読売新聞夕刊見開き2面を使用しての広告宣伝。ここまでしないとお客さんは映画館に足を運んではくれないのだろうか。

 スタジオジブリ、宮崎駿というネームバリューで、固定客やリピーターが十分いるではないか。大々的に宣伝したほど大コケしたら恥ずかしい。(まぁこの映画にはありえないけれど。)

 映画でもテレビでも、CDでも本でも何でもかんでもベスト10、トップ10なんかもう、つまらない。大コケした作品をワースト10という形でテレビ放送してほしいよね~。(ていうか無理。)

 この作品のレビューは別のサイトにたくさんあるので、私の視点で書いてみる。

 床下に住んでいるから借りる。
 仮り住まいしているから仮りている。
 角砂糖やティッシュペーパーを狩ってくる。

 それなら漢字の借りではなくて、想像力をかきたてるために、タイトルはひらがなの「かりぐらし…」の方が良かったのではないか。

 実はこれも違う。

 人間に許可をもらって角砂糖やテッシュペーパーを借りにきているわけではない。小人族は人間に見られてはいけないルール(=掟)なのだから。それなら、

 「盗みぐらしの…」
 「かすめとりの…」
 「ちょろまかしの…」

 の題名が本当だと思う。しかしそれはジブリ作品のタイトルとしては相応しくない。

 小人族がこんな形で生きていく事は不可能。チリやダニのほこりまみれの床下の生活環境で生きていくのは無理。蟻や蜘蛛やミミズなど小動物とどう立ち向かうのか。それより大きなねずみ、犬や猫、小鳥に噛み殺されてしまうのではないのか。

 あくまでこの物語はファンタジーでおとぎ話なのでそれを書くのは野暮というものだ。もし本当に小人族がいたとしたらと、どうしても現実を見てしまう。

 「そんなのアリエナイッティ」になってしまう。

 小人族のために作った大邸宅もあまり生かされず、活発な少女と病弱な少年との交流、ほのかな恋心もいまいち心に響いてこなかった。物足りなさが残る。スタジオジブリ作品の中では小品で佳作といったところ。それは一度見たら、2度目は別に見なくてもいいと感じたから。

 この作品を見ながら、芸能人がよく目撃するという都市伝説「小さなおじさん」を思い出してしまった。

借りぐらしのアリエッティ 予告
 
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テーマ : 借りぐらしのアリエッティ

ジャンル : 映画

2008.08.03
崖の上のポニョ [DVD]崖の上のポニョ [DVD]
(2009/07/03)
不明

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 人物名(以下敬称略)の青字はクリックできて、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に飛べます。

 DVDないしBlu-Rayが発売されたら貼ります。とりあえずこの作品のサウンドトラックを貼っておきます。(久石 嬢さんの曲は、どの(映画)作品もいい。)

 ♪ ポ~ニョ ポ~ニョ ポニョ さかなの子 ♪ 耳に残る子供の声。

 この作品のタイトルは「崖の上の少年」もしくは「海の中のポニョ」が正しいと思うが。

 この作品を語る前に宮崎 駿に少しだけ触れておこう。宮崎駿の原案・脚本・監督というだけで劇場に足を運ぶ人は多い。ネームバリューの大きさだと思う。もう一人いるのが、今なら押井 守だろう。(映画「スカイ・クロラ」は見ていないので書かない。)

 「崖の上のポニョ」「スカイ・クロラ」とも、読売新聞と日本テレビが協力・協賛・提供しているので、番組宣伝のために数億円のお金をかけていると思う。(CM、特別番組、折込チラシ、よみぴあ、新聞の映画記事、PR版と必死!)

 宮崎 駿が1960年~80年代にかけて、(スタジオジブリを設立する前といったらいいか。)アニメーションに携わる人間の立場から、相当苦労したものと思われる。というのは当時のアニメーターの賃金の安さは、他のどの仕事と比較しても格段に安い。過重労働の上に平均月収10万円いかないとか。

 今ではどうなんだろう。アニメーション制作会社によっては、月収はまちまちだと思うけれど、少しは低賃金は解消されたのだろうか?

 制作番組を原価を割り込むほどの低価格で売り込んだことが、現在に至るまで日本のアニメーション製作費が極めて低く抑えられる要因←その要因を作ったのが手塚 治虫

 そのために宮崎 駿は、手塚 治虫に対して快く思っていないようだ。

 「崖の上のポニョ」レビュー
 (この作品は、映画料金を払って観に行ったのではなく、三ツ矢サイダー(この映画の協賛企業)の懸賞に当選して、一般公開前の試写会で観た。)

 結論から先に書いてしまうと、映画料金を払って見る作品でもなく、DVDレンタルになって、家で見ても見なくてもどちらでもいい作品。感覚や感性で制作した作品。(DVDレンタルして見ようとは思わない。地上波で放送されれば見るだろうという作品。)

 宮崎 駿さん!67歳にもなるし、もうそろそろ第一線から離れて後進に道を譲ったらいかがですか。引退して悠悠自適の生活を送ったらいいと思います。

 この作品を見て宮崎 駿さんに、こんな言葉を贈りたいと思った。

 「さかなの女の子と人間の男の子との愛、海と生命を描く冒険ファンタジー」と一行で書くとこんな感じだが、最後まで、まったく内容や意味がわからない。また宮崎 駿はこの映画を通して何を(子供達に)伝えたかったのか?

 鈴木敏夫曰く、「5歳の子からみると、どんな時代であれ世界は美しく、生きるに値する。」という気持ちがこめられているのではないのか、と言う。(よみぴあ8月号から)

 そこまで子供が理解できるだろうか。単に「ポニョってかわいいね~。」で終わりだと思う。

 陸の住人は宗介の両親、耕一とリサはわかる。しかし、海の住人ポニョの両親、グランマンマーレとフジモトの説明が何もない。どうやってあんなにたくさんポニョがいるのか(生んだのか)?フジモトはかつて人間だったのに、なぜまた海の住人の戻ったのか?だいたい何で人間の姿をしているのだ?グランマンマーレがポニョの母親だったなんて、見終わったずいぶん後で気がついた。

 デイケアサービスに勤めるリサと、「ひまわりの家」で暮らす老人達が大洪水の後、海の中にいるのはなんだ?唐突に月?星?が近づいてきたのが大洪水の原因?危機感とか危機意識とかまったくない。わからない事だらけだ。

 生と死、死後の世界、輪廻転生。そんなに深いメッセージが込められているのですか。私にはまったく感じ取る事はできませんでした。

 この作品の批評を読むと、「謎解きは不要。謎は謎のままで受け止めればいい。」って、そんなのでこの作品は傑作です。と言いきってしまっていいのか。

 唯一良かったのは、海と波の手描きのダイナミックな表現だったぐらい。

 この作品を見終わったとき、「?」を頭に浮かべながら、首を傾げながら家に帰った。

 「たけくまメモ」ブログ(←クリック)というのがある。宮崎 駿についてというか、この作品のレビューというか、あれこれ書いています。共感できるのがあった。最後の文章に、

 「~~~後はもう死んでもいいと思っているんじゃないでしょうかね。根拠はありませんが、そんな気がします。」それは私も感じた。

 宮崎 駿は、もう十分(満足)と思えるほどの作品を残し、自分の好きなように、やりたいように自由に作った作品だと思う。もうやり尽くした。だから、竹熊さんからこんな言葉がでたのじゃないだろうか。

 といいながら宮崎 駿は、死ぬまで作品を作り続けるだろう。すでに次回作の構想が、、、。なんてね。

崖の上のポニョ 予告

テーマ : 崖の上のポニョ

ジャンル : 映画

2008.02.25
初回限定生産【BD Digibook】アマデウス ディレクターズカット [Blu-ray]初回限定生産【BD Digibook】アマデウス ディレクターズカット [Blu-ray]
(2009/03/11)
F・マーリー・エイブラハムエリザベス・ベリッジ

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 この映画をもし凡作、駄作、あるいは佳作だという人がいるとすれば、それは元から映画の楽しみ方を知らないといっていいだろう。映画を楽しむ事とは無縁の人である。

 脚本、監督、演出、衣装、音楽、美術、俳優、すべてにおいて非の打ち所がない。アカデミー賞8部門を獲得して当然の作品である。

 「モーツァルトよ!お前の曲がもっと聴きたい。もっと私に曲を書いてくれ!」サリエリの本心は、実はこうではなかったのか。モーツァルトの才能を見抜き、もっとも作品を愛し、理解していたのはサリエリ自身だった。

 この映画は私の心に深く突き刺さり、頭に「ガツン」とハンマーで叩かれたような衝撃だった。(というとちょっと大げさかもしれない。)私の心にいつまでも残り、余韻に浸っていたい映画だ。もうすでに5回は観ただろうか10年に一本でてきた映画だと言える。いや生涯忘れられない映画となった。

 モーツァルトの生涯を単になぞらえた映画だったら大失敗していただろう。この映画を名作としているのは、サリエリの目を通してモーツァルトを描いているからだ。

 「モーツァルト許してくれ。告白する、お前を殺したのは私だ。」と自殺未遂の果てに精神病棟に入ったサリエリが、神父に語りかけるように物語が進行していく。回想しながら展開していく演出は見事だといっていい。神父に向けられるサリエリの表情は、時に優しく、時に激しく揺れ動く。

 モーツァルトに対する憎しみ、復讐、渇望、不安、怖れ、憧れ、焦燥、サリエリの長きに渡る苦しみはいかばかりか。胸中を察するに余りある。

 「嫉妬」というキーワードをなしにこの映画は語れない。

 モーツァルトが紳士的で大人の男性であれば、サリエリのモーツァルトに対する嫉妬心はそれほどでもなかっただろう。ところがモーツァルトは高慢で、女のケツを追い掛け回す品性下劣な男である。

 陛下、男爵、宮廷楽長、劇場監督の目の前で、サリエリが陛下のために作曲した作品を、モーツァルトはあっさりと即興で編曲してしまう。サリエリにしてみたら、はらわたが煮えくり返る思いだったはずだ。編曲したほうがいい曲だったからだ。

 「なぜ神は下品な若者を選んだのか。」サリエリは、神をも裏切り十字架を焼き払ってしまうシーンは、サリエリの激しい憎しみの感情が見て取れる。

 サリエリによって語られるオペラも見所の一つだ。モーツァルトのオペラは斬新でアイデア満載だったのだろう。サリエリは一日たりとも見逃さなかった。作品が完璧だったからだ。観客の拍手喝采、スタンディングオーベーションがすべてを物語る。

 「神は私を殺し、私を生き地獄に32年間、自分が忘れ去られるさまを、この目で見続けさせた。私の音楽が廃れていくのを今や誰に演奏される事もない 彼の曲は、、、。」

 このサリエリの台詞の先は「永遠に残り、未来永劫演奏される、、、。」

 車椅子でサリエリが運ばれるシーンからエンディングロールにいたるまで、私は涙が止まらなかった。サリエリの気持ちが痛いほどわかるからだ。そう、この私も凡人なのだから。

 最後のモーツァルトの笑い声は一体何を意味するのか?(モーツァルトの声を借りて)「神は、あの世でも私のことを馬鹿にしているのか?せせら笑っているのか?」サリエリの心の叫び声が聞こえてきそうである。

Amadeus Trailer (アマデウス 予告編) 
   

テーマ : 心に残る映画

ジャンル : 映画

2008.02.01
ゾディアック 特別版ゾディアック 特別版
(2008/07/09)
ジェイク・ギレンホールマーク・ラファロ

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 ゾディアック(Zodiac)とは、アメリカ合衆国の連続殺人者。1968年から1974年のサンフランシスコで警察が確認できた被害者5名を殺害。現在も犯人不明のまま事件は解決されていない。 

 ゾディアックと名乗る人物がサンフランシスコ湾域警察、新聞社「タイムズ・ヘラルド」とサンフランシスコの2社、著名人へ多量の手紙を送った。あるものは部分的に暗号化されていた。

 この映画は、それほど面白い作品ではない。ゾディアックというものに興味や関心がなければ、見ても何とも思わないからだ。派手なアクションや銃撃戦があるわけでもなく、途中で飽きてしまうだろう。

 この作品を見たいと思う人は、サイコスリラーや猟奇的殺人事件が好きなど、限定されると思う。元々こういう作品が嫌いな人は、映画で見ようとか、レンタル屋で借りようとかも、思わないだろう。見向きさえもしないと考えれられる。

 ゾディアックは、新聞社や警察に手紙を送り、暗号を解読してみろっ!とどういう反応をするか、マスメディアはどう応対するのか、犯人は楽しんでいるのだ。愉快犯ともいえる。「クックックッ」とせせら笑っているようにさえ感じる。いかれた奴、頭のおかしい奴というのは、どの国でもいそうだ。殺人をなんとも思わない、むしろ人を殺す事が快感なのだ。何人殺そうが同じという心の持ち主だろう。(どういう生い立ちなんだ!?という疑問も沸く。)

 この作品は、ゾディアックという殺人者より、この事件を通して記者や刑事たちの人生が翻弄されていく物語に主眼がおかれている。特に臆病な(新聞)風刺漫画家が取り付かれたように何十年にも渡って、この事件を捜査していく姿に興味や関心を引かれるか否かで、この映画の面白さに差がでるだろう。

 デヴィッド・フィンチャー監督は、ゾディアック殺人事件を映画にする意味があったのだろうか?アメリカでは、これ以上もっと猟奇的な殺人事件がたくさんあるにもかかわらず、なにか心引かれるものがあったのだろう。その当時の関係者(=警察、刑事、新聞記者等)の膨大な情報や知識を詰め込んで、映画撮影に臨んだと思われるが。

 ドキュメンタリータッチというか、事実をありのままに淡々と進行していくので、作品にメリハリがあるとは感じなかった。こうならざるおえなかった作品といえる。結局犯人がわからず、起訴の検討準備中に容疑者が心臓発作で死亡。容疑者のDNA鑑定も不一致。迷宮入りのまま捜査を打ち切りながらも、いまだ(ある地域では)捜査中、とは最後のクレジットの字幕でモヤモヤした感じは拭い切れない。

 この作品と同じ監督の映画「セブン」の方が圧倒的に面白かった。(この作品はレビュー予定です。)
 余談、この監督は雨のシーンが好きらしい。その映像(美)は素晴らしいと思う。

「実録!! ゾディアック The Zodiac」予告編 

テーマ : 映画★★★★★レビュー

ジャンル : 映画

2008.01.04
「嫉妬」という言葉を辞書で引いて、さらに読んでみる。
その2 自分の愛する者の愛情が他に向くのを恨み憎むこと。

 その言葉の意味を如実(=実際の通りであること)に物語る映画がある。それがこの映画です。
危険な情事 スペシャル・コレクターズ・エディション危険な情事 スペシャル・コレクターズ・エディション
(2006/11/02)
マイケル・ダグラス、グレン・クローズ 他

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 この映画のパッケージを貼り付けて良いか悩みました。人にオススメ出来る映画とは、あまりいえないからだ。約20年前にTVで見た映画なので、「アマゾン・コム」の商品説明を参考にして、思い出しながら書きます。
 
 妻子の留守中、仕事で知り合った女性アレックス(グレン・クロース)と一夜の情事を楽しんだ弁護士のダン(マイケル・ダグラス)そのSEX場面が衝撃的だ。男と女の肉欲、激欲というか、こういう場面を見せ付けられると、気持ち悪ささえ感じる。もはや人間ではなく動物だ。理性も、羞恥心もあったもんじゃない。オスとメスの関係といったらいいだろう。

 彼(ダン)にとっては遊びでしかなったが、不倫相手の女性(アレックス)はそうではなかった。もうすでに、ダンにしか目に入らなくなっていく。ずばり当てはまる言葉がある。「恋は盲目」 そこから、この女性の行動はストーカーと化し、ダンの家に乗り込んでから、どんどんエスカレートしていく。

 ダンと妻の飼っているペット(確かウサギだったと思う。)を、鍋の沸騰した湯にウサギを入れて殺し、ダン夫婦の子供まで手をかけるのだ。最期にアレックスは出刃包丁でダンを殺そうとするのだが、ダンの妻によって、拳銃で頭を打ちぬかれて殺され、この映画は終わる。

 「嫉妬」という二文字では語れず、それが執(情)念となって、「憎悪」に変わり「殺意」から「殺人」にまで発展する。また当てはまる言葉がある。「愛と憎しみは紙一重」

 なんと後味の悪い映画だろう。だから人には薦められない映画である。妻あるいは彼女と一緒に見るか、それとも妻子持ちの男性一人で見るか、浮気(不倫との違いはなんだろう?)防止には最適な映画かもしれない。私にはホラー映画にしかみえなかったが。生きている人間が一番怖い、恐ろしいと感じる映画だと思う。

 世界中で起きている殺人事件の犯人の動機の半分は、「嫉妬」が最初に来るものではないか?日本でも、「嫉妬」が発端となる殺人事件が多いと思う。

 男と女の愛憎が絡む問題ほど醜いものはない。まったく関係のない他人が見ても嫌だからだ。

 「嫉妬」という言葉を取り上げた時、この映画を紹介するためではない。まだ違います。
 今度は、「容姿、物」の「嫉妬」について書きたいと思う。

テーマ : TVで見た映画

ジャンル : 映画

2007.12.30
 この作品に不満がないわけではない。(はっきりいって、おこがましいです。)
 星護監督に注文!以下5つの点。

№1 向坂が椿に向けて、いきなり声を荒げる台詞が多すぎる。もう少し減らしてもよかったのでは。昭和15年、日本は戦争への道を歩みはじめた時期なので、軍国主義のイメージからしかたないのかもしれない。

№2 警視庁外観(守衛が左右2人いる)で、椿が「びびる」シーンが数秒あるが、1日目は警視庁という建物の威厳、権威という意味で必要だと思うが、2日目以降は、このシーンは必要ないと思う。もし必要なら今度は椿が「びびらずに」入るべきだろう。向坂の無理難題を、が脚本の手直しをして日々戦っているのだから。

№3 7日目、椿が取調室を出ようとする時、向坂が「待てっ!」といって扉のドアを開けて、「誰も入れるなっ」というシーンは不要だと思う。星護監督は、廊下の制服警官役 高橋昌也を撮りたかったのだろう。しかし扉のドアを開けることによって椿と向坂のやりとりのいい場面が少し途切れてしまった。

№4 7日目の向坂の回想シーンで台本を読みながら笑う、自宅の食事の時、妻(と思われる)の茶碗を持つ「手(首)」のシーンは不要だと思う。細かいけれど、わざとらしい演出。

№5 椿一役の稲垣吾郎だろう。ダイコンの部分(下手な演技)が多く、アマゾンのカスタマーレビューではミスキャストではないかと書いている人がいたが、そこまで書くのは酷すぎるだろう。確かに他にもっと良い役者がいたのも確かだ。例えば、勝村政信。実はこの人よりも一押しの役者がいる。その人の名前は東根作寿英。(目立たなく地味なのだが、いい役者だと思う。)

 この「映画版」と「舞台版」を、そっくり役者を換えて考えてみた。どちらも別に、さして問題はないだろう。ただ西村雅彦(さんには悪い)が役所広司ほどの演技が出来るとは思えない。役所広司が上手すぎるからだ。

 もう一つ「映画版」が「舞台版」よりいいのは、向坂と椿の2人との間に「年齢差」があることだ。(この場合は、役所と稲垣との年齢差という意味である。)警察で台本の検閲をする強い立場の向坂と、台本の検閲を受けなければ、上演許可がおりない弱い立場の椿一。「年齢差」があることによって、上下関係がはっきりしている。

 この作品も三谷の筆力に脱帽するばかりだ。2人芝居をここまで脚本にできるのだから、三谷の才能はとどまる事を知らない。書きながら言葉があふれてくるのだろう。また三谷幸喜にしてやられたと思う作品だった。
 
 また星護監督が、(三谷自身が、この作品を映画でやりたかった事すべてが)見事に堪えてくれたと三谷は思っているだろう。

 この映画「笑う」ということはなにか?とテーマが一貫しているのもよかった。

 これで「笑の大学」については終了です。

テーマ : 心に残る映画

ジャンル : 映画

2007.12.29
 最初、椿の仕事に対して何の興味も無かった向坂が、どんどん椿の書いている脚本に興味を持ち最後には劇場にまで足を運ぶようになる。向坂の微妙な心境の変化が見て取れるので、舞台版よりも映画版の方がすぐれている。だから映画版の方がいい。

 1日目~4日目まで、実はあまり面白い(笑える)ところが無かった。ところが5日目から一気に私のボルテージは上がった。

 向坂睦男役の役所広司の演技だ。馬鹿の役をやらすと本当に馬鹿に見える。役所広司って、なにやらしても上手い役者だ。(私の中でSランククラスの役者。)

 警官の格好をして走り回るシーンがあるが、あれくらいやってもいいと思う。6日目の最初の場面、役所さん自身が真面目にやればやるほど馬鹿に見えてくる。そこがまたおかしい。

 三谷脚本の「転~結」にかけての上手さが光る。ここからが驚くべき展開を見せる。

 椿が(向坂にわかってもらえると思って)今までの事を吐露するのだが、向坂が共感するどころか、「聞きたくなかったっ!」と逆に声を荒げる。そして「笑いの要素を一切排除して下さい。」と椿に挑戦状を叩きつけるのだ!

 「笑いのない喜劇を書けっ!」確かに出来るわけがない。ところが椿は、「やってみなくちゃわからないだろっ!」と声を張り上げる。椿のモデルは、喜劇王榎本健一(通称エノケン)がモデルといっているが、この台詞を聞いて実は三谷幸喜自身でないかと私は錯覚したのだが。

 向坂と椿の会話に、回想シーンで青空寛太の「猿股失敬っ!」や、モギリのおばさんなどの、ちょっとした場面も小気味いい。

 そして最後の7日目、椿は笑いのない脚本を書いてこないどころか逆に笑いが絶えない脚本を書いてきた。椿に赤紙が来ていたのだ。

 「君の本がもっと読みたい、君の作った舞台が観たい、もっと私を楽しませて欲しいんだ。」と、向坂の台詞があるが「君」というのは三谷自身で、向坂は三谷の望んでいる観客ではないかと思う。私の考えすぎだろうか。

 最後に椿が長い廊下を歩き立ち止まる。向坂かドアを開けて、
 向坂の最後の台詞は感動的だ。「生きて帰って来ーーーい。~~~。大好きなんだ。」 これまた泣けるシーンだ。だから映画版の方がいい。

 4日目の夜、向坂は劇場の前まで行って立ち止まるのだが、そのまま帰る。5日目の夜は劇場に入り上演される演劇を見る。(どういうところなんだろうと、恐る恐る向坂が上演中の舞台に入るまでのシーンの星護監督の撮り方がまた上手い。)7日目の回想場面は、劇場で上演中の作品を観ながら笑っているのではない、泣いているのだ。向坂が観客と同じく笑っていたらこのシーンは台無しだっ!

 「笑う」ということに感動しているのだ。「笑う」ということがなぜ重要なのか。「笑う」ということがいかに人生を豊かにするのか、この向坂は、はじめて気がつくのだ。心の底から笑う、家で、路上で、電車の中で、仕事場で、ベンチのシートで。

 向坂が上演を観て泣いているシーンは本当にいいシーンだ。思わず私も泣いてしまった。 

 向坂の場面を細かく心理描写できる星護監督は、やはり三谷脚本を、よく理解していると思う。これもまた舞台版ではない演出。だから映画版の方がいい。

 瀬戸内寂聴さんをテレビで見て、一言耳にした事がある。「人間は、笑うって事をしなかったら幸せは絶対にやってこない。」なるほど上手い事言うよね~。 

 椅子と机の位置、窓と太陽の光の撮り入れ方も上手い。

 この映画版の評価を一段と上げているのが、音楽の使い方(=挿入の仕方)だ。音楽(曲調)もすばらしい。最近見た映画の中で、これほど音楽が印象に残る作品は珍しい。

 普通の映画ならスタッフロールが流れると、映画館では席をはずして去る人が多いし、DVDで見ているなら早送りだろう。エンディングまで凝りに凝って作っているので最後まで観てしまう。星護監督のセンスの良さを感じる。

 これも舞台版だと、「あれれっ、終わり!?」と西村雅彦と近藤芳正の挨拶で味もそけっもない。音楽があることによって、映画版が非常に印象に残る。だから映画版の方がいい。

 その3も書くよっ!

テーマ : 心に残る映画

ジャンル : 映画

2007.12.28
笑の大学 スペシャル・エディション笑の大学 スペシャル・エディション
(2005/05/27)
役所広司稲垣吾郎

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↑「スタンダード エディション」より、こちらを買って欲しいです。

 12月1日に「笑の大学」の舞台版より映画版の方がなぜいいのか?というのを書いた。「だから映画版の方がいい。」という書き方をしたいと思う。

 人物名敬称略です。

 まずこの「笑の大学」映画版をレビューする前に、なぜ三谷幸喜が「星護」という監督を指名したかということだ。共同テレビには、本広克行、落合正幸、若松節朗、鈴木雅之、村上正典など、才能あふれる、監督、演出家が多い。

 検索エンジンで映画公開前、メディアプレイヤー(今は動画は見れない)で三谷は宣伝をしていた。「この映画を自分で監督するのは手におえない。」と言っている。私もそう思う。三谷は映画監督だとすれば初心者だからだ。

 星護監督で大正解だったと思う。三谷自身にも「星護じゃなきゃやらない。」といった審美観を持ち合わせていた。他の監督、演出家だったらどうだったのだろう?ここまでの映像表現は、できなかったのではないか。いかに星護が三谷の考えを汲取り、上手く映像にし、舞台版を映画版に昇華(=ある状態から、さらに高度な状態へ飛躍すること。)しているのがわかる。

 オープニング(一日目)から、星護監督の映像表現の上手さが、ほとばしる。浅草の街並に貼られたポスターや看板、劇場での観客の笑いのシーン、警視庁保安課、向坂睦男役(役所広司)が、脚本を読みながら、不許可、許可と、ハンコをバンバン押すシーン、警察で台本の検閲を受けなければ上演できない、作家達の悲喜こもごもなど。

 ほとんど台詞が無くても、 向坂が何の仕事をしているのか一目瞭然だからだ。これを舞台版で表現するのは不可能。だから映画版の方がいい。三谷監督だったら一日目最初の8分間を、ここまで出来なかったと思う。

 映画版でカラスの話しが無いのは取るに足らないことだ。この映画の一番重要なのは、向坂睦男と椿一役 (稲垣五郎)の2人の男が7日間を通して、どう心情が変化していくか、だからだ。

 1日目から他愛のない話(「舞台版」ではカラスの話、「映画版」では今川焼きの話)からはじまるので、だらだらしている。舞台版のほうが飽きやすいと思う。無理難題を向坂は、一日一日、椿の脚本に注文を小出してくるが、それをクリアーしていく。

 「設定を日本に変えて下さい。」→「お国のためという台詞を入れてください。」→「神吉、お宮の接吻の場面を外してください。」→「登場人物の中に警察官を一人出していただきたい。」

 向坂と椿とのやりとりが面白いと思うか、思わないかで、この作品の評価は大きく分かれるだろう。

 長文になりそうなので、その2で書きます。

テーマ : 心に残る映画

ジャンル : 映画

2007.11.22
ダイ・ハード (Blu-ray Disc)ダイ・ハード (Blu-ray Disc)
(2007/11/07)
ブルース・ウィリス

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 ↑単純に「面白い!」といえばアクション映画の最高傑作だと思う。

 本当は、「ダイ・ハード4.0」を貼ろうと思ったけれど、その出来があんまり良くなくて、一作目の「ダイ・ハード」にしました。「4」ではなくて「4.0」なのはなぜ?デレクターズカット、あるいは完全版で「4.1」や「4.2」で発売するのか。バージョンアップじゃあるまいし。

 この「ダイ・ハード」シリーズが約10年ぶりの新作だったので、脚本が相当練られているものだとえらく期待していたのに期待にたがわぬどころか、「がっくり」きてしまった。

 アマゾンのレビューは、5つ星の人が多くて甘すぎる評価だと思う。作れば作るほど劣化していく(アマゾンのレビューで書いている人がいた。)作品とは、まさにこのことを言う。私なら2つ星。(がいいところだろう。)

 内容が小、中学生レベル。しかも薄い。ネタ切れだろう。適役が「凄み」「狂気」じみたところが無く、若いせいもあって全然魅力が無い。それに、なんでこんな若い男(=テロリストの首謀者ガブリエル)の手下(仲間)につく理由すら、わからない。公共機関にサイバーテロを仕掛けるのだが、その動機がくだらなく「お金」が本当の目的というパターン。(このシリーズ皆、「お金」が目的。)

 アパートでの銃撃戦→車でヘリ撃墜→エレベータのシャフトで、車が宙吊り。その場で、女テロリストとの死闘→大型トレーラーVS戦闘機と、見せ場は、確かにある。が、そんなに都合よくいくはずはない。「どれも、ほとんどありえね~。」それをいってしまえばこのシリーズは、お終いなんだけれど。

 ハリウッドのアクション映画(SF映画も含む。)は、見せ場がほとんど他の映画(「アイランド」「アイロボット」「バイオハザード」「スパイダーマン」など)と、金太郎飴(=似たり寄ったり)で、ワンパターン。もうあきました。

 ジョン・マクレーン刑事の「何で俺がこんなめに、、。」と愚痴をこぼすところや、(屈強でない)人間くさいところがこのシリーズの魅力であって、不死身なのがわかるが、だんだん超人化してきた。要するに、ブルースウィリスである必要性がなくなってきたと思う。

 一作目の良さを一言でいうと、いろんな細かい所まで行き届いている作品。マクレーンが裸足である事の意味や、妻との微妙な関係、警官パウエルとマクレーンとの男同士の友情。小道具の使い方(道)、テレビレポーターや、FBIの脇役の存在感。適役である「悪」の凄み等、脚本がよくできている。またCGを使用せず、生身の人間マクレーンの活躍に「どんどん敵を、やっちまえっ!」と共感すら覚える(感じる。)

 またラストも雪の降る中、マクレーンとアル(妻)が抱き合うシーンを見ると「いや~めでたし、めでたし。」と、見終わった後すがすがしい気分、いい気持ちになれる。

Die Hard (1988) - Trailer


 一作目の舞台は「ビル」、二作目は「飛行機」、三作目は「地下鉄」、四作目「車(大型トレーラー含む。)、ヘリコプター。」では、五作目は「豪華客船」?それは「スピード2」の映画でやったから、もし制作すれば、パクリといわれる作品になるだろう。

 (当然、冗談だが、)次回作は、ジョン・マクレーンが宇宙に飛び出して、エイリアンでもプレデターでもいいから宇宙人と戦ってくれ!不死身なんだから。もう「ダイ・ハード」と呼べる作品じゃなくなる。(笑)

 この映画作品「ダイ・ハード4.0」は、ワンコイン(レンタルで新作、約500円だから。)の価値しかなかった。一回見たら、もういいや、という映画だった。買って失敗した。どうせなら、Blu-Rayディスク(再生機のプレーヤーを持っていないが、いずれ買うので。)の第一作を、買うべきだった。

 それでも頭の中を空っぽにすれば、こういう類のアクション映画は楽しめるのは確かだ。それを「馬鹿らしい、くだらない、アホらしい。」と思うか感じるかは、人それぞれだろう。

テーマ : DVDで見た映画

ジャンル : 映画

2007.10.13
 私は「黒澤明さん」というより「氏」だろう。(敬称略)」をずっと避け続けてきた。それは「黒澤映画を見る。」ということを避けてきたという意味だ。お気軽に、さらっと、さわやかに鑑賞するのと趣が違うからだ。その内容は、広く、深く、重く、考えさせられる作品ばかりだ。宗教や哲学、芸術(=映像美)の世界までおよんでいると思う。

 黒澤作品のすごいところは、何年、何十年経過しても、まったく色褪せないことだ。世界の(名立たる)映画監督に多大な影響をあたえ、なぜ「世界のクロサワ」とよばれているのか、この作品「生きる」一本をみてもわかると思う。私はこの作品を見て、はじめて「黒澤作品」と向き合ったといえる。
生きる<普及版>生きる<普及版>
(2007/12/07)
志村喬;小田切みき;小堀誠;金子信雄;千秋実

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 最初のシーン「志村喬 - 渡邊勘治役」(市役所市民課長)の仕事の映像を見せて「この男は死んでいるのである。」という最初のナレーションから、この作品を見透かし見抜いてしまった。(だから、黒澤作品っていやなんだよっー。)

 私には、この人(=渡邊勘治)のおかれている状況、あるいは状態が良くわかるからだ。何の疑問を持たず、ただ与えられた仕事を毎日毎日、永遠と同じ事を繰り返している。まるでロボットのようだ。そう、だから「死んでいるのである。」

 「つまんねー。」といいながら仕事をしている人は、全仕事人口の半分以上いるのではないか。「毎日毎日繰りかえされる同じ事に一体何の意味があるのだろう?」と。製造業、ラインに入って仕事をする人は特に感じていると思う。(私もちょっと前は、そういう仕事だったから。)

 「仕事が楽しい、仕事が面白い。」あるいは「自分が何をしている時が一番楽しいか。」を見つけられた人は幸せだと思う。(私自身それはまだない。いや一生見つけられないで人生終わるかもしれない。)

 自分が胃ガンで余命が少ないことを知った後の、この男の行動は滑稽にさえ思える。部下の小田切とよ、との出会い、自分の職場ではじめて公園建設の仕事にやる気を見出し、奮闘する姿を見ていると憐れにさえ感じる。

 「俺は一体今まで何をしてきたのか、何のための人生だったのか。」それはブランコにのって(主人公が口ずさむ歌「ゴンドラの唄」)いるシーンが象徴的である。

 この男の物語とは別に、お客さんが相談しに来たにもかかわらず「○○課に行って下さい。」と、何回もたらいまわしにされるお役所仕事に対しての皮肉も入っている。

 後半は一変して、渡邊勘治が死んだ後の葬儀のシーンではじまる。職場の同僚達との会話は考えさせられる事ばかりだ。中高年、あるいは定年すぎたあたりの人が、このシーンだけ見ても、ふと自分自身を振り返ってみる、きっかけになると思う。

 また最後の数秒のシーンがいい。一人の職場の同僚の男が、上から公園の緑地(=渡辺勘治が、最期にやり遂げた仕事。)を見届けて終わるシーンは印象深い。

 この映画、実は今の若者が見たほうがいいのでは?と思う。特に、ニート、引き篭もり、アパシー(=無気力、無関心、無感動の三無主義)の人達。この映画を見て「何も感じない。」「なんとも思わない。」としたら、この映画の主人公と同じく「生きながら死んでいる。」のである。

 人間の心の風景、心情を、どんな映像にするかを見事に表現できる。それが一流の監督(あるいは演出家)といえる。この「黒澤明」もその一人だろう。「黒澤明」を一言で、たとえるなら、「人間とはなにか?」を、映画を通して広く深く、追究した人物といえないか。もう一人同じような人物がいる。漫画を通してなら、「手塚治虫」ではないだろうか。

テーマ : 心に残る映画

ジャンル : 映画

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